今年の夏のはじめは、新型コロナウイルスの影響や、雨が続き山道が少し危険なことなどが重なって、なかなか大土にうかがえませんでした。
と、いうわけで今回は『大土の短い夏』と題し、前編では「大土のはじまり」と「方言」の関係について、後編では大土の「夏の実り」について取り上げます。大土集落が位置するところは自動車を使っても市街地から40分近くかかるところ。そもそも、なぜこんな山奥に人が暮らすようになったのでしょうか。
夏休みの自由研究と思ってご覧いただければ幸いです。
金沢に暮らしながら平日は大学に、週末は加賀市の大土町に通っている“ましろ”が、大土で体験する貴重な暮らしをお届けする連載です。山中温泉最奥の地にある大土町の暮らしや季節の営みを、外から目線で切り取ってお伝えしていきます。
(自己紹介や大土町について詳しくはこちらの記事をご覧ください)
緑雨の季節
雨が降るとアスファルトが濡れて車が滑り、いつも以上に運転に気をつけて大土集落へと向かいます。
今でこそ自動車で向かう事ができますが、昭和の中頃までは未舗装の細く狭い山道しか存在せず、もちろん車での行き来は出来ませんでした。
現在大土に住む唯一の住民である「のぼさん」こと二枚田昇さんは、1964年に東京オリンピックが開催されたときに小学生4年生で、荒谷(大土から4kmほど麓側にある集落)の分校に通うために、毎日石だらけのオフロードを自転車で行き来していたのだとか。
急な崖の近くではお地蔵様がそっと鎮座しており、今でも集落と麓を往来する人々を見守っています。
そんな辺鄙な土地に集落ができたきっかけは「平家の落武者伝説」と言われています。
今から840年近く前、日本中で源平合戦が繰り広げられ、源氏方に敗れた平氏の武士たちは、その身を隠すために日本中へと逃げていきました。
その中の数名が今の大土周辺に逃げ込み、こっそりと集落を作り上げたのだとか。
その名残りとして大土で使われていた方言は、平氏の武士が使用していたものだと考えられています。
とはいえ、今はたった一人しか暮らしていないので大土出身者同士の会話は私もあまり聞いたことがありません。
のぼさんにきいてみたところ「〜してたもれ(〜してください)」「ごっそさま(ごちそうさま)」「めっそもな(滅相もない)」という、武家言葉が多く使われていたのだそう。
「うちの母親とか、大土の昔のばあちゃんらはみんなそうやって話しとった。わたしは荒谷の小学校の本校に通うようになったとき、話し方が大土だけ違うからからかわれるんが嫌やった」とのこと。
都から遠く離れた山の果てに位置する大土の中で、どこか高貴な雰囲気が漂う会話が繰り広げられていたのかと考えるとつい面白おかしく感じてしまいますし、子どもにとってはそれがコンプレックスにもなっていたんだなあと感じます。
そういえば、3年ほど前に金沢に引っ越してきたとき、滋賀県出身の私はついつい関西弁が出てしまい、周りの友達にからかわれて恥ずかしい気持ちになることもありました。
もしかしたら小学生だったのぼさんは、3年前の私と同じような気持ちだったのかもしれませんね。
今回の方言や平家の落ち武者伝説に関しては、のぼさんのお話に加えてこちらの古い資料をお借りして調べました。
教科書にのらないローカルな歴史ではありますが、ここに人々が暮らしはじめて一つの文化を形成したということは、大土という素敵な場所を語る上で欠かせないもの。
私は大土に通い始めて3年以上経ちますが、改めて過去の歴史を調べてみたことで、言葉と歴史が結びついているという興味深い伝承を知ることが出来ました。
大土の魅力として豊かな自然や伝統的な暮らしがクローズアップされがちですが、それらの背景にある地域の歴史を知った上で見てみると、また一つ面白さを味わえるのかもしれません。